初心者ドライバーあるある

若者の「車離れ」などと言われて久しいが、都心部を除いて、特に地方都市ではまだまだ車社会の所が多い。

筆者が若年期に過ごした地方都市でも、高校を卒業すると春休みまたは次の夏休みに車の免許を取得するというのは当たり前だった。今でも地方都市ではそのような傾向はなくなっていないと思われる。

誰しも免許とりたて(=若者)の頃はあるので、経験を積んだ人から苦言を呈するのは後出しじゃんけんのようで気が引ける部分もあるが、自分の若いころの反省も含めて「初心者ドライバーあるある」を挙げてみたい。これらは、筆者も含めて周辺の知人等からヒアリングしたり実際に目にしたりした「あるある」である。

  • 車列が切れて十分余裕があるのに合流しない。
    • (本音) 行けるでしょ! 何をモタモタしているのか!
  • 積極的に合流しない。いつまでも待っている。結果、後列が大渋滞。
    • (本音) 朝の時間がない時は周り(後ろ)を苛立たせる!
  • 合流を譲ってもらったのにすぐに進まずモタモタしている。
    • (本音) ほらっ! 早く行けよ!

はっきりいってしまうと大変語弊があるが、これはほとんどが若い女性初心者ドライバーの挙動だ。今どき男女の性差について言及するのは「差別だー!」だの「女性蔑視だー!」だのやかましい世の中になったのでめったなことは言えなくなったが、向き・不向きというものは実際にあるわけで、一般に(全員とは言っていない!)女性の方がこういう「操縦モノ」のスキルが低い傾向があるのは否定できないだろう。

結局は慣れの問題だと思うので、ある程度の経験を積めばこのような初心者あるあるから抜け出せるだろう。そうであっても、毎年初心者は出てくるので、いつまでたってもこのような「あるある」は残っていくだろう。

で、何が言いたいかというと、初心者であっても

できるだけ交通の流れに逆らわない

ことをもっと意識して欲しいということだ。完全でなくても構わないのでできるだけ意識して欲しい。「意識している」ことが少しでも見えれば、周りだって苛立たずに温かい目で見ることができる。苛立つのはその挙動ではなく「意識しているように思えない」からだ。

なんとも観念的で具体的ではないのだが、もしこれを読んでいる初心者ドライバーがいたら、ぜひ意識して日々の運転の経験を積んでもらいたいところだ。

令和2年12月16日 初出

夕方のニュース

現在、平日の16時~18時くらいの時間帯に、テレビ各局とも「夕方のニュース」を放映している。平日会社勤めをしている層にはあまり見る機会もないと思うが、この内容があまりにもひどいので苦言を呈したい。

この夕方のニュースの前の時間帯、14時~16時でも各局情報番組をやっている。ニュース番組というよりワイドショー的なものが多いが、政治・経済・事件等、ニュース的な内容も多い。

これにひきつづいて16時~18時の時間帯で放映される「夕方のニュース」だが、前の時間帯の情報番組と内容が重複しているケースも多い。それだけなら「その時間帯にニュースを見たい」需要もあるだろうから一概に無駄とは言わないが、問題は

特集・特報ってなんやねん!

である。最初の30分~1時間くらいはニュース番組らしい構成だが、後半になると「特集」とか「特報」と称して「行列のできる○○」だの「○○奮闘記」など、およそニュース番組とは思えないコンテンツばかりだ。ワイドショー的、いやむしろバラエティ的なコンテンツで、これがニュース番組の一部とは思えない目を疑う内容だ。

そのようなコンテンツが全て無駄だとは言わないが、はたしてニュース番組でやることだろうか? そういうコンテンツを所望している層も存在するだろうから、それならいっそニュース番組とは別に番組を構成すべきではないか。

どうも、2時間の番組枠をニュースだけでは埋められないから、そのような「特集」を入れ込んで枠を埋めているだけのような印象を受ける。ニュースだけで18時くらいまでつなげないんだったらニュース番組なんてやめればぁ? と皮肉のひとつも言いたくなる。

テレビが「オワコン」になりつつある現代であるが、まだまだテレビの役割は大きいと思う。であれば、ぜひ横並びの「あるある」で安易に番組を制作することなく、優良なコンテンツを発信して欲しい。

令和2年12月16日 初出

CMまたぎ

もうタイトルだけでおわかりだろう。最近の民放テレビ放送で、いわゆる「CMまたぎ」という手法が用いられてから久しい。もう、「ひどい」の一言である。

今はもうなくなってしまったが、正月特番で「かくし芸大会」のような番組があった。演者がひととおり「かくし芸」を披露した後、司会者が「それでは得点をどうぞ!」と言うと、審査員が点数を入れて「10点、10点、10点、10点、10点、満点です!」というような流れだ。ここで一区切りとなるので、このあとCMに入っていく…これが当然の流れであった。

ところが、1990年代初頭~半ばくらいからであろうか、「それでは得点をどうぞ!」の後に、

ブチッとCMに突入…

という構成に遭遇した。な、なんだこれ? へ、編集を間違ってますよ! こんなところで切るなんてありえないでしょ。筆者は当初「編集を間違った」のではないかと思うくらいだった。

もちろんこれは間違いではなく、「視聴者をじらしてCMを見させるため」意図的にこのような編集にしているのだ。いわゆる「CMまたぎ」という手法である。これが効果的なのかどうか知らないが、このような「論理的に無茶苦茶な」編集をする番組がどんどん増えてきて、今では視聴者の方も「どうせ結果はCMの後でしょ…」とわかっており、それが当たり前のようになってしまった。

ついでに最近のバラエティ等の「あるある」演出を皮肉を込めて再現してみよう。

  • 出演者のひとりが「実はこれは[????] (効果音ピヨピヨピヨ)なんです!」
  • 他の出演者2~3人が顔アップで驚いたような表情を見せ、その画面に観客っぽい声が「えぇ~~」とかぶる。
  • で、ブチっとCM突入…
  • CM明けでは、切れたところのちょっと前から再開して上記[????]の部分がようやく開示される。
  • でも、他の演者が驚いたような表情の場面はなく、その「正解」に関する内容が淡々と流れるだけ。
  • しかもその内容はじらすほどのものでない低レベルなコンテンツ

上記[????]の部分は、皮肉を込めてあえて「全角」で打ってある。もうね、CMまたぎだけでもひどいのに、

もはや「うそをついている」

レベルである。完全に視聴者をバカにしている。よくスポンサーが文句言わないもんだ。

このような低俗な演出が当たり前になってしまった以上、もし筆者がスポンサーなら以下のようにして逆に差別化を図りたい。

  • コンテンツの論理構造を大切にし、ひとまとめに見せるところは絶対に切らない。
  • CMまたぎをしない。
  • 出演者のアップで表情だけという画面構成をしない。(ワイプも不要!)

この他にも最近の番組構成について苦言を呈したいことは山ほどあるが、また別の機会に。

令和2年11月17日 初出

エスカレータと動く歩道

コロナ禍が継続して久しい。東京都など、都市部でも一時の「外出自粛」時と違い、かなりの人出が戻ってきたように感じる。筆者は東京出張時に東京駅を利用することが多いが、京葉線への移動時に利用するエスカレータや動く歩道もかなりの「密」になっている光景を目にする。

エスカレータに関しては、昔から「歩かないで立ち止まりましょう」ということが言われ続けているが、いまだに「片側によって立ち止まり、もう片側は空けておく」という習慣が根強い。関東だと立ち止まるのは「左側」だし、関西だと「右側」という違いはあるが、「急いでいる人のためにもう片側は空けておく」という、ある意味マナーのようになってしまっている。

もちろん、本来は、

エスカレータは「立ち止まって」

利用するものだ。東京駅などではエスカレータを歩かないように看板を掲示したりアナウンスしたりと、様々なキャンペーンを行っているようだが、なかなか定着しない。筆者も昔は歩くことが多かったが、反省して今は立ち止まって利用するようにしている。長年の習慣を変えるのは長い時間がかかるので、地道に啓蒙していくしかないか…とも思う。

一方、「動く歩道」であるが、最近、都市部の駅構内に限らず、空港等でもよく見かけるが、「立ち止まって」利用する人がかなりの割合で存在する。あ、あのぉ、

動く歩道は「歩くのが基本」

なんですよ! これ、エスカレータの場合と何か勘違いしている人が多いのか、アナウンスで「走らないでください」と言っているのを勘違いしているのか、さも「自分は正しいことをしているんだ!」という感じで堂々と動く歩道の真ん中にどっしりと構えて動かない人が散見される。

動く歩道は、文字通り「歩道」なので、そこを歩くことが原則である。「走る」のは危険がともなうので避けるべきだ。だから「走らないでください」とアナウンスがあるのだ。しかしよく聞いてほしい。「歩かないでください」とは言っていないのだ!

動く歩道の目的は「水平方向に速く移動する」ことであり、エスカレータのように「(垂直方向に)楽に移動する」ことではない。ここのところを勘違いしている層が相当数いるようだ。

もちろん、動く歩道も「歩道」なのだから、立ち止まっても構わない。荷物をたくさん持っている場合など、立ち止まっているだけで移動できるのだから、そういった意味では多少は「楽に移動する」目的に利用しても良いかもしれない。しかしその場合は、「本来の目的に沿って歩いている人の邪魔にならないように道を空ける」のがマナーだ。動かない通常の歩道のことを考えればこのことは当然だと思うのだが。

  • エスカレータは「立ち止まって乗るもの」
  • 動く歩道は「歩くもの」、ただし、「立ち止まって」も良いがその場合は道を空けよう

賢明な諸兄には、「エスカレータ」と「動く歩道」の違いをきちんと意識して、適切な利用をお願いしたいところだ。

令和2年10月28日 初出

カタカナ表記の濁音・半濁音

日本語は、漢字・ひらがな・カタカナを駆使して豊かな表記ができる誇るべき言語である。外国語由来の言葉も、カタカナがあることで容易に表記することができる。

外国語由来の言葉をそのままカタカナで表記することの是非はあるかと思う。

明治時代に、特に学術分野の外国語を当時の識者が「邦訳」して新しい言葉を作ったことにより、我々日本人は基本的な教育を「母国語で」受けることができる。最高学府である大学レベルの高等教育までも母国語で受けることができる。これは当たり前のようだが、実は当たり前ではなく、世界でも希少な国なのだ。先人の努力に敬意を表したい。

一方、特に近年になって急激に入ってきたコンピュータ用語などは、邦訳されずにそのままカタカナで表記されることがほとんどだ。一時期コンピュータ用語も適当な邦訳をしようという運動もあったようだ。筆者が保有しているKnuthの”The Art of Computer Programming”の邦訳版(古い書籍)では、用語の邦訳が試みられているものの、結局は定着しなかった。

  • プログラム → 算符
  • プログラミング → 作符

「コンピュータ」を「計算機」、「ネットワーク」を「網(もう)」というくらいなら定着したものもあるが、さすがに「算符」とか「作符」は全く定着しなかった。

さて、外国語をカタカナ表記することが多い近年ではあるが、なぜそういう表記になったのか疑問があるものも散見される。

例えば、プロ野球の「タイガー」は、”Tigers”なので本来は「タイガー」と、複数形を表す最後の”s”は「ズ」と濁るのが正しい。「スワロー」は”Swallows”で、ちゃんと濁っている。「タイガー」の場合、どうも「ガー」と「ズ」と濁音が連続するのを避けるため「ス」となっている、という説があるようだ。とはいえ、「はさみ」”scissors”は「シザー」と表記するのでやっぱり疑問ではある…

「キューピッ」も、本当は”cupid”なので「キューピッ」だし、「バミントン」とよくいうが、本当は”badminton”なので「バミントン」である。

もっと基本的な例では、アルファベットの”Z”は、アメリカ英語では「ズィー」、イギリス英語では「ゼッ」と発音する。これは中学1年生の英語の最初の方で習うはずだ。日本の英語教育は、一応アメリカ英語をメインにしているので、本来は「ズィー」とすべきだが、「ズィー」という発音が難しいのか、日本語の発音「ジー」に落とし込んでしまうと”G”と区別がつかないからか、なぜかイギリス英語の方の「ゼッ」の方が一般的だ。しかもほとんどの人が「ゼッ」と発音している。私の知人で大変優秀な人であっても、「本当はゼッである」ことを知らない人もいた。1970年代の漫画・アニメ「マジンガーZ 」でも「ゼッ」と表記・発音していた。

上記の例は「本来濁点だが、濁点でなくなっている」ケースだが、反対に「本来濁点でないのに、濁点になっている」例もある。「アボド」や「ジャジー」なんかがその例だろう。(「アボド」「ジャジー」または「ジャクージー」が正しい)

変わり種だと、「バイス」のことを年配の人で「バイス」と言ったりする例もある。(私の祖母がそうだった)

いずれの場合でも、どうも日本語は濁点・半濁点とそうでないクリーンな発音があいまいな言語なのではないかと思う。これは、本来日本語には濁点等の言葉はなくて、他の言葉とくっついたりしたときの「音便」変化に伴って出現するものだった、ということがあるのかもしれない。ちょっとこういうことを指摘すると「そんなのどっちでもいいんだよ!」という人が多いのがそれを物語っているのではないだろうか。

あと、本来の外国語(たいていは英語)の発音を知らないで、なんとなく聞いた感じや綴りだけを見て、ローマ字風に読んでしまったのが定着してしまったとか、そんなところだろう。

全く別の言葉に引っ張られているケースもあると思う。例えば上述した「アボド」だが、これは高校の理科(化学)で習う「アボドロ定数」に引っ張られている可能性が高い。知人にこのことを話したら「えぇ~、それはないよ~、第一そんな言葉知らないし」と一笑にふされてしまったが、いやいや、あなたは理系じゃなかったからもう記憶にないかもしれないが、絶対習ったはずで、潜在意識の中にはちゃんと残っていて、なんとなく「アボ」ときたら「ガド」と続けたくなってしまう(続けるのが自然だと思ってしまう)というのはあながち暴論でもないだろう。

さて、「タイガー」であるが、これは外国語ではなく「外国語由来の日本語」つまり「外来語」だと思えば、これはこれで正当性はある。「ジャジー」なんかも今更変えられないので、これも日本語だと思えばよいだろう。

かといって、何が何でも「元の言語に忠実な発音表記にすべし」と強硬に主張するつもりはない。ちょっと「濁音・半濁音」とは異なるケースだが、既に日本語として定着している言葉を、いまさら元の言語の発音に忠実に表記することはないだろう。

  • game → ○ゲーム、(× ゲイム)
  • video → ○ビデオ、(× ヴィディオウ) 

とはいえ、もしこれから新しい外国語由来の言葉を日本語表記することになったら、それを導入する人(業界・団体)にお願いなのだが、できるだけ元の言語の発音に近い表記にしてもらえたらと思う。少なくとも「知らないで」とか「勘違いで」そうなってしまった、というのは避けてもらいたいところだ。

令和2年10月14日 初出
令和2年12月24日 改訂

高齢者ドライバー

令和2年10月現在、相も変わらず高齢者による操作ミスと思しき交通事故のニュースが絶えない。

池袋で起きた高齢者による暴走事故の裁判が始まったようだが、被告人は自動車の不具合を理由に無罪を主張しているという。裁判で無罪を主張するのは被告人の権利であるし、感情的に「魔女裁判」になってはいけないものの、それでも筆者は「いやいや、そうやって、自分のミスに気付かない・認めないこと自体が既に認知機能に問題があるだろう!」という気持ちになってしまう。

これ以外にも、高齢者による「ブレーキとアクセルの踏み間違い」や「逆走」等の案件が頻発している。高齢者といっても、その能力には激しい個人差があり、一律「高齢者の運転免許なんか取り上げろ!」というのも暴論だ。そもそも、問題のある「高齢者」をどう定義するのか…難しい問題だ。

高齢であることと運転における能力の低下について、定性的ではなく科学的・医学的・定量的に評価できる基準のようなものができるのが理想だろう。そのような基準があれば、その基準に基づいて運転免許証の効力停止等が「法的」に可能になるだろう。

上記のような基準ができるにはまだまだ時間がかかりそうだ。そもそも自動車を運転する高齢者がこれほど出てくるという状況は、人類史上初めてのことだ。これから様々な研究が進んで、何らかの定量的な基準ができることを期待したい。

とはいえ、このまま現状の状況が続けば、また不幸な事故が量産され続けかねない。そこで、

免許は一定年齢で一旦停止

とするしかないと思う。例えば、「75歳で一旦停止」とする。その上で、運転を続けたい人は、改めて学科試験と実技試験を受けて、それに合格したら1年間だけ延長できる、というようにする。試験は、最初に免許を取った時と同じくらいである必要はなく、最低限の道路交通法と最低限の実技試験を課す、

特定運転免許試験制度(仮)

なんてのを導入してはどうだろうか。

学科試験は、最低限の道路交通法を問う問題で30問程度、単純に数値を問うような問題ではなく、標識や標示の意味や、どこで駐停車禁止だとか追い越し禁止だとかの問題にする。普通の人が(例えば40代の人とか)受ければ90点くらいは取れるようなレベルにする。合格点は70点以上とか。

実技試験は、信号のあるコースで右左折を含めて2周程度、コースは横に乗っている試験官が指示する(覚えなくてよい)、バックでの車庫入れとクランクくらい。車線変更する時にちゃんとミラーと目視で後方確認しているか、ウィンカーのタイミング、アクセルとブレーキの適切な使用等、「安全に運転ができるか」という観点で評価するようにする。

あと、実技試験では、AT限定じゃない免許を持っている人にはマニュアル車で受けさせる。これで合格基準に達しなければ、AT車で再受験を認めて、それで合格すればAT限定免許になる。AT車でも不合格なら、免許停止とする。

この特定運転免許試験制度(仮)による試験が受けられるのは、最大1年間までとし、受験回数も例えば2回までとかに制限する。この間に試験に合格できなければ、免許は自動的に失効(返納扱い)ということにする。

もちろん、特定運転免許試験(仮)を受けずに、75歳の時点で自主的に返納してもよい。返納しなくても、75歳から特定運転免許試験(仮)を受験せずに一定期間経過すれば(例えば1年間とか)自動的に失効(返納扱い)とする。

特定運転免許試験(仮)の有効期間を1年とかにすると「毎年試験を受けるのは面倒だ」という声が聞こえてきそうだが、走る凶器になりうる自動車を運転するのに、

1年に1回くらいの試験を
マネージメントできない人は、
どうぞ運転をやめてください

というスタンスでよいのではないか。

このように、

  • 免許の有効期限は、一定の年齢までが原則(例: 75歳まで)
  • それ以降は、特定運転免許試験(仮)に合格すれば1年単位で延長される。
  • 特定運転免許試験(仮)に合格した人は、また次の年に受験して合格すれば運転を続けられる。

という制度にすれば、運転が危うい高齢者はおのずと「淘汰」されるだろう。高齢者でも認知機能や運転能力に問題ない人は(試験に合格さえすれば)運転が続けられるので、一律に「取り上げる」より公平感もあるだろう(「できる」人の権利までは奪わないということ)。

もうね、こんな風にするしかないんじゃないでしょうかねぇ?

令和2年10月14日 初出

ギガが減らないのに

令和2年9月16日に菅義偉内閣が発足した。発足直後から様々な政策を進めつつあるが、一般受けしそうな政策として「携帯電話料金の値下げ」が挙げられるだろう。

電波という「国民の共有財産」を利用しながら、実質新規参入が困難で、主要3社で寡占状態にあることが携帯電話料金の高さにつながっているということは以前から指摘されていた。この不景気な時代に高い営業利益を得ていることも指摘されている(利益を得ることは決して悪いことではないが)。

携帯電話料金は、各社で様々なプランが用意されていてわかりにくいといえばわかりにくい。TV等のメディアでもCMが打たれているが、結局プランの詳細は別途ウェブなり店頭なりで確認しないと本当のところはわからない。

さて、ある携帯電話会社のCMで最近気になる表現がある。それは、

ギガが減らないのに

なんちゃら…とかいうものだ。な、なんだこれ!? 用語の使い方が間違ってますよ!

賢明な諸兄は当然わかっていると思うが、「ギガ」というのは国際単位系(SI) における接頭辞のことで、「キロ」の100万倍 = 「メガ」の1000倍 = 109のことだ。「キロ」等と同じで、これ単体では用いず、「ギガバイト」のように、何らかの単位とともに用いる。

最近の携帯電話料金は、その月の通信容量の最大値を基に「○○ギガバイトまでは△△円」というように設定されている。「ギガが減らない」というのは、この「○○ギガバイト」の容量制限のことを指しているようだ。

もうね、2段階に間違ってますよ!

  • 「ギガ」単体で使うことが間違っている。それを言うなら「ギガバイト」だろうが!
  • 「ギガが減らないのに」じゃなくて「容量が減らないのに」だろうが!

CMも含めた既存メディアの体たらくぶりはひどいものだが、まぁなんというか、こんな表現、オンエアされるまで誰かひとりでも指摘しなかったのだろうか。「ふいんき」だけで「あるある」で本質も理解せずノリだけで物事を進める層がそんなにいるんだろうか? 理解に苦しむし、「正気ですか?」と言いたくなる。

技術畑ではない人・メディアならともかく、いやしくも通信会社そのもののCMである。こんな表現のCMをオンエアしていたら、その会社の技術レベルまで疑われるというものだ。ほんと、わかってやってます? 本当はわかっていないんじゃないの?

それとも、専門家以外にはどうせわかりっこないから、適当にごまかしちゃえってことなんだろうか。いずれにしても、言葉の意味や由来・語源を知って、ちゃんと正しく使おうよ…はぁ。

令和2年10月14日初出
令和2年11月17日 改訂

夜ごはん

最近「夜に食べる食事」のことを「夜ごはん」(よるごはん)とかいう表現をやたら目にするようになった。YouTubeなどの動画で散見されるが、既存メディアのテレビ番組等でも見かけることが多い。

「夜に食べる食事」を表現する言葉としては「夕食」(ゆうしょく)、「夕飯」(ゆうめし)、「夕御飯」(ゆうごはん)、「晩飯」(ばんめし)、「晩御飯」(ばんごはん)等がある。「昼に食べる食事」も「昼食」(ちゅうしょく)、「昼飯」(ひるめし)、「昼御飯」(ひるごはん)はあるけど、

「夜ごはん」ってなんやねん!

そんな言葉はありません! なんというか、ちゃんとした言葉を使おうよ。「夜ごはん」なんて「夜のごはん」という、書き下し文のような感じで、非常に幼稚な印象であり、「ちゃんとした言葉を知らないのかな?」と暗澹たる気持ちになる。いい大人がみっともない。

もし「夜ごはん」を容認すると「夜食」(やしょく)との区別はどうするの? という疑問も生じる。若い世代を中心に、生活パターンが多様化(!)した結果、宵っ張りが多くなってきたことで、夕食と夜食の境が曖昧になった事もあり、このような稚拙な表現でごまかす(ごっちゃにする)風潮があるのかもしれないが…

屁理屈をこねて「夕方には食べないので、夕御飯とは言わないと思いま~す」というような小バカがいるかもしれないので、一番一般的な「夕食」か、より範囲が大きい「晩御飯」「晩飯」を筆者は推奨したい。「晩」であれば夕方から深夜まで網羅できるし「朝昼晩」(あさひるばん)という熟語もあるので自然だろう。まとめると、

  • 朝食 → 昼食 → 夕食 → 夜食
  • 朝飯 → 昼飯 → 晩飯(夕飯を内包) → 夜食
  • 朝御飯 → 昼御飯 → 晩御飯(夕御飯を内包) → 夜食

のいずれかとすれば一定の統一感があって誤解もないはずだ。

賢明な皆さんは、「夜ごはん」なんて言わないで、ちゃんと 「夕食」「晩御飯」「晩飯」とか言うようにしましょうね。

令和2年7月1日 初出
令和2年11月17日 改訂

じいじ・ばあば

親子3世代同居というライフスタイルが過去のものになって久しい。「核家族」なる言葉も、今や核家族の方がデフォルトなので、逆に言わなくなってしまった。

筆者が子供の頃過ごした家庭は、当たり前のように3世代同居だった。必然的に祖父母の存在が身近にあった。祖父母にとって孫はかわいいものらしく、筆者も祖父母にはかわいがってもらった。そんな「おじいちゃん」「おばあちゃん」が大好きだった。

父母や祖父母のことをどう呼ぶのかは各家庭それぞれだろう。父母は「おとうさん」「おかあさん」が標準的だろうが、筆者が子供のころでも「パパ」「ママ」というのも比較的多かったように思う。「おとうちゃん」「おかあちゃん」も少数ながら存在した。高度経済成長期で洋風な生活様式が「おしゃれ」とされたのも一因だろうが、「パパ」「ママ」は比較的早い段階で市民権も得ていたように思う。

ところが、である。祖父母に関しては、「おじいちゃん」「おばあちゃん」が一般的で特に変化はなかったように思うのだが、最近は、

じいじ・ばあば

などという呼称が広まっているらしい。筆者の身近でも甥・姪の世代で「じいじ」「ばあば」と呼んでいる層がいるが、当初その家庭ローカルなもの、または地域的なものだと思っていた。ところが、テレビの全国放送のインタビュー等で子供が「じいじ」「ばあば」と当たり前のように呼称しているのを見ることが多くなるにつけ、どうやらこれは全国的な傾向なのか? と感じるようになった。

各家庭で、父母や祖父母の呼称をどうするかは自由だとは思うものの、なぜわざわざそのような呼称をするのか理解に苦しむ。この傾向はまだ小学生とか比較的年齢の若い層のもののようだが、今にいい大人も「じいじ」「ばあば」と言い出すんじゃないかと危惧している。

「じいじ」「ばあば」は響きもやさしいし、親しみを込めてそう呼称しているのだろう。または、親や祖父母本人が、そう呼ぶようにしつけているのかもしれない。いずれにしても、どうも子供っぽい印象は拭えない。「車」を「ぶうぶ」と言っているような感じがするのだ。

核家族がデフォルトになった現代では、祖父母の存在が身近でなくなり、夏休みとかに会いに行く、たまに会うだけのやさしいおじいさん・おばあさん、というくらいの認識なのだろうか。また、当の祖父母も、昔の「おじいさん(おじいちゃん)」「おばあさん(おばあちゃん)」に比べて随分と若々しく、「『おばあちゃん』なんて呼ばないで!」ということもあるのだろうか。

「おじいさん(おじいちゃん)」「おばあさん(おばあちゃん)」という言葉は、「親の親」という関係性の意味と、「年をとった人間」という生物的な意味の両方を持つ。(「おとうさん」「おかあさん」は関係性の意味しか持たない。) 後者の意味とも捉えられるからこれを忌み嫌う人がいるのも理解できるが、かわいい孫の手前、そんなつまらないプライドなどどうでも良いではないか

100歩譲って、家庭内でどう呼ぶのかはその家庭の自由にすれば良い。しかし、第三者に言う場面では「おじいちゃんの家に遊びに行きました」と言うようにしませんか?

令和元年9月3日 初出
令和元年10月15日 移設

CV – Character Voice!?

令和元年(2019年)7月18日 の「京都アニメーション放火事件」では、優秀なスタッフが多数亡くなった。理不尽極まりない事件だ。日本製のアニメはその内容・技術において、国内だけでなく海外でも高く評価されており、もはや日本の代表的な文化・コンテンツのひとつと言っても良いだろう。それだけに今回の事件は社会的にも大きな衝撃を与えた。

アニメといえばその「絵」だけではなく、効果音や音楽等も重要な要素だろう。特に、登場人物を演じる声優の役割は大きい。

筆者はとりたててアニメファンということもないが、最近はアニメやその登場人物(キャラクター)以上に、それを演じる声優そのものに人気があるらしい。そういった理由からだろうか、アニメのテレビCM等では、キャラクターを演じる声優名も登場することが多くなった。例えば「山田太郎」さんという人気声優がいたとすると…

CV: 山田太郎

な、なにこれ!? なにやら謎の「CV」という表記。どうやら「声優」のことを勝手にこう表記しているようなのだ。「声優」というより「声」という感じか。この「CV」は「Character Voice」の意味らしい。はぁ…

「勝手に」というのは賛否あろうかと思うが、「CV」とだけ表記して、それを「Character Voice」のことだと言うのは無理があるだろう。アニメ業界では既にそういう表記が使われているのかもしれないが、一般人からすれば全くピンとこないし市民権も得ていない。恣意的な表現を勝手に使っている。

おそらく「声優」や「声」と、「CV」では微妙にニュアンスが違う、と言いたいのだろう。善意に解釈してあげれば、

  • 「声優」だと、その声を担当する人そのものな感じがする。
  • 「このキャラクターの声を担当するのは」という意味の表記が欲しい。
  • それならば「声」でいいのだが、ただ「声」だけでは味気ないし「…を演じるのは」的なニュアンスが弱い。もっとこうシャレオツな記号的な用語が欲しい。
  • 「キャラクターの声」だから「Character Voice」で、それを略して「CV」でいんじゃね?

とまぁ、こんなところだろう。

アニメ業界の中でとか、アニメ雑誌の中で使う分には全く構わないと思うが、それを使うのがあたかも当たり前のように「勝手に」解釈して、何の説明もなく市民権も得ていない用語を使うのはどうかと思うのだ。筆者などは、別に「声」でいいじゃん、と思うのだが…。普通に「声: 山田太郎」にしようよ…orz

これに限らず、平成・令和にかけて、いろんなコミュニティーがそれぞれ「勝手に」内側に小さくまとまっているケースが増えたような気がする。いい意味では「お互い余計な干渉をし合わないで自由にやろうよ」的なのだが、悪い意味だと「他のコミュニティーのことなんか知ったこっちゃない」という、 なんだかとても独りよがりな感じがするのだ。 戦後の行きすぎた個人主義の団体版のような風潮がはびこってしまっているような気がして暗澹たる思いがする…ちょっと大げさだろか。

令和元年8月30日 初出
令和元年10月15日 移設

抜かす・抜かされる

昨今、「あおり運転」に関するニュースが多く報じられている。いうまでもなく、あおり運転は重大な傷害や命を奪う可能性のある大変危険な行為だ。現行の法律では直接あおり運転を処罰することができないとのことだが、そうであれば是非法改正でもなんでもやってもらって、厳罰にして欲しい。

[※令和2年(2020年)6月30日から施行される改正道路交通法で、いわゆる「あおり運転」が「妨害運転」として明確に違反行為として規定された。 免許取り消しとなるとともに、最高で5年以下の懲役が科せられることとなる。]

さて、あおり運転の状況を見てみると、どうも「追い越した」「追い越された」がきっかけになっているケースが多いように思う。人の本能的な闘争心とでもいうのであろうか、特に追い越された場合、「追い越された = 負け = 悔しい」のような感情が湧くのであろうか。

この「追い越す」「追い越される」という表現だが、より口語的に言う場合は「抜く」「抜かれる」となるだろう。ところが、巷ではなぜか、

抜かす・抜かされる

という表現をよく耳にする。 筆者が初めて「抜かす」という表現を聞いたのは、1990年代だろうか、職場の先輩が使っていた記憶がある。少なくとも30年以上は前から使われているようだ。 な、なんだよこれ…。こんな言葉はない。誤用である。

別に「あの車抜いちゃえ!」や「あぁ、初心者マークの車に抜かれた!」でいいではないか(話している内容はよくないが)。なぜわざわざ誤用である「あの車抜かしちゃえ!」や「あぁ、初心者マークの車に抜かされた!」を使うのか(繰り返すが、話している内容はよくない:-p)。

筆者を含めた「『抜かす』を使わない」側の分析はこうだ。

  • 本来は「抜く」「抜かれる」が正しい。
  • ここに「負かす」「負かされる」的な意味が込められて「抜かす」「抜かされる」となった。「抜き去る」というようなニュアンスも込められているのかもしれない。
  • 他に似た響きの単語がなかったので、すっかりこの誤用が広まった。

「抜かす」は一部地方の方言という説もあるようだが、いずれにしても誤用であることは明らかだ。懸命な諸兄は、普通に「抜く」「抜かれる」を使おう!

令和元年8月30日 初出
令和元年10月15日 移設
令和2年7月1日 改訂

防御率

筆者は小学校の時からバリバリ理系で、算数とか理科が大好物(!)だった。小学校の時から算数が嫌いになる人も多いが、筆者は幸いにしてつまづくことはなかった。つまづくポイントは大体決まっていて、その代表的なものが「割合」だろう。

割合とは、何かの量なり数値なりの全体を1とした時に、ある対象がどのくらいになるか、というものだ。パーセントでいうと、何かの全体を100とした時に、ある対象がどのくらいになるか、ということを表し「%」という記号を使う。全体を1とすると、半分は0.5であり、全体を100%とすると、半分は50%である。

割合は小学5年生で習う割には、かなり抽象的な概念のように思う。筆者がその当時どういう捉え方をしたかは覚えていないが、計算をするときに「全体を1」とした時の割合(例えば0.5)を、単に全体の量にかけてやれば、対象のものの量が機械的に求められることは便利だな、と思った覚えがある。

さて、野球で「防御率」という用語がある。ピッチャーの「9イニングの平均自責点」のことで、要は「このピッチャーが1試合平均何点取られたか」ということを表す数値である。この数値が小さいほど、ピッチャーとして優れていると評価される。例えば「防御率0.9」なんてのは、1試合平均で1点も取られていないということになるので、大変優秀な成績ということになる。逆に、1アウトとか2アウトしか取れないのにボロクソに打たれて大量失点すれば、防御率50とかもあり得る。過去には100を超えた記録もあったようだ。

防御率は英語で「earned run average」というらしい。いや、話は逆で、英語の「earned run average」を「防御率」と訳したものだろう。しかし、この「防御率」という用語、ちょっと違和感があると思わないだろうか?

そもそも「率」というのは、前述した割合とほぼ同じ意味で、何かの量全体を1とした時の、ある対象の量の比のことである。防御率の定義からすると「1試合に1点取られる」ことを全体としての基準としていることになる。例えば、防御率2というのは、その基準の2倍の値ということになる。

しかしここで疑問が湧く。野球において「1試合に1点取られる」ことに何か特別な意味があるだろうか? 何かそれを絶対的な基準とみることに意味があるだろうか?

野球では1試合で0点もあれば2点、3点、10点もある。つまり「1点」には何かそれを絶対的な基準とするような特段の意味はないのである。だから「防御率」という用語はちょっと違うんじゃないかと筆者は思うのである。元々の英語の用語を見てもわかるとおり、これはあくまで「与えた点数の平均」というような意味であり、どこにも「率」=「ratio」的な単語は入っていない。ぶっちゃけていうと「防御率」という用語は誤訳だと思うのだ。

しかも、「率」という割には、その数値が大きい場合は「防御できていない」ことを意味し、逆にその数値が小さい場合は「防御できている」ことを意味していて、本来の「率」のニュアンスとは反対になっている。

とはいえ、この「防御率」なる数値は、ピッチャーの成績を評価する上で感覚的にわかりやすい指標であることは間違いない…そう! 指標なのだ。「1試合に1点取られる」ことを基準にした何らかの「率」ではなく、単なる数値の大小で比較できる指標だと思えば何も問題ない。

そこで筆者は「防御率」に代わる用語を提案したい。それは、

防御指数

である。「指数」は「指標」と同じような意味で様々な分野で使われているから違和感もない。どうだろうか? でもこれだとやっぱり「防御指数が小さい方が優秀」となって指数の大小が反対の感じがするので、

与点指数

なんてのはどうだろうか? これなら英語の用語の意味に近いのではないだろうか?

令和元年5月21日 初出
令和元年10月15日 移設

ハッシュドビーフ

子供が好きな食べ物といったら、スパゲッティ・ハンバーグ・カレーだろう。筆者が子供の頃はもちろん、令和の現代でも大きくは変わらないはずだ。とはいっても、筆者の時代では、スパゲッティといえば、いわゆる「ナポリタン」のことであり、バリエーションがあったとしても「ミートソース」くらいだ。ひょっとして現代の子供は「ボンゴレビアンコ」だの「カルボナーラ」だの、好みが深化しているかもしれないが。ハンバーグだって、筆者の頃の「マルシンハンバーグ」ではなく、ビーフ100%の「本格的な」ハンバーグなのかもしれない。

その点カレー(カレーライス)は今も昔もあまりバリエーションが変わらないように思う。本格的なカレーも増えたが、昔ながらの家庭で作るカレーも健在だ。

筆者が子供の頃、もちろんカレーが大好物だったが、ある時「今夜はカレーだ!」と喜び勇んで食卓について、最初の一口をかっこむと、妙な違和感があった。カレーだと思ったものが実はハヤシライスだったのだ。

「ハヤシライス」という名称の語源は「Hashed beef with rice」等諸説あるようだが、いずれにしても「hashed」という単語がキーワードだ。「こま切れにする」とか「ごたまぜにする」というような意味の動詞「hash」を形容詞的に利用するために過去分詞の形にしたものだ。コンピュータ業界では「ハッシュ」というと検索アルゴリズムだったり、連想配列の一種だったり、ファイルの正当性チェックのための「ハッシュ値」を求めたりすることでおなじみの諸兄も多いだろう。

スーパーで良く見かけるハヤシライスのルーのパッケージは、昔は「ハヤシライス」と表記したものしかなかったが、本格的な雰囲気を出したいという意図だろうか、最近は英語の発音に準じた表記のものも見かけるようになった。ところが、である。

ハッシュドビーフ

な、何これ? ま、間違ってますよ!

いうまでもないが、「hash」の最後の「sh」は無声音なので、後ろの「-ed」の発音は無声音の/t/である。カタカナに書き下すなら「ハッシュトビーフ」が正しい。ま、まさか「-ed」という綴りだけを見て、安易に/d/音として「ド」と書き下しているのだろうか?

大手有名食品メーカーが出す商品である。市場に出るまでに商品企画・パッケージデザイン・印刷業者等、様々なフェーズがあるはずであり、たくさんの優秀な人達が関わっているはずだ。それなのに誰も間違いを指摘しなかったのだろうか? それとも何らかの意図があって、わざとそういう表記にしているのだろうか?

さすがに誰も指摘しなかったとは考えられないので、いろいろと議論したあげく、「『-ed』はそのまま読めば『ド』だし、どうせ英語の本当の発音とは違うのだから、日本語として『ド』にしよう!」ということになったのだと推測するが、がんばる方向が間違っている。日本人の「英語リテラシー」はこんなにも低いのかと暗澹たる気分になる。

「-ed」はあくまで英語の文法上の語尾である。「hashed beef」なら「ハッシュされたビーフ」という意味の「された」に相当する部分である。英語に忠実に、ということなら「ハッシュトビーフ」にすべきだし、日本語としてのカタカナ語に落とし込むのであれば、むしろこのような文法上の語尾など取ってしまって「ハッシュビーフ」にすべきだ。

その他、最近よく目にする「-ed」問題を挙げておく。

  • advanced – 誤: アドバンスド、正: アドバンスト
  • baked – 誤: ベイクド、正: ベイクト
  • sliced – 誤: スライスド、正: スライスト
  • masked – 誤: マスクド、正: マスクト
  • poached egg – 誤: ポーチドエッグ、正: ポーチトエッグ

大手メディアや企業が手掛けている製品やサービスにこのような誤用が散見される。こんな間違いが堂々と世の中に出されちゃっている。頼むからちゃんとしてくださいよ。

ついでにもうひとつの例を。

2000年頃、筆者は大手電気メーカーでネットワーク機器の開発に携わっていた。設定次第でハブにもルーターにもなる、いわゆる「スーパーハブ」というものを開発していた。ネットワーク機器の設定といえば、Cisco社の設定方式(IOS)が有名で、ほぼ業界標準のようになっていたので、開発していたスーパーハブもIOSに「とても良く似ている」コマンド体系にしていた。一応断っておくが、IOSは、Apple社のスマホやタブレットで採用されているiOSとは全く別物だ。

さて、このような大規模な開発物件では、複数の部署の多数の人員で開発することになる。ハブ機能を実装するチーム、ルータ機能を実装するチーム、各種サーバ機能を実装するチーム、マニュアル(取説)を執筆するチーム等、総勢数十人で開発していた。

開発も最終段階に入り、マニュアルチームから査閲依頼が来るようになった。ここでまたしても筆者は目を疑うことになる。VLANの種類を設定するコマンドの説明文に、

ポートベースドVLAN
MACアドレスベースドVLAN

等と書いてあったのだ。

いやいやいや! 筆者はこの表記は間違っていると主張したが、最初はなかなか受け入れてもらえなかった。なんとまぁこんなに優秀な人達が集まっているというのに、かなりの人が「ド」で良いと思っていたのだ。

詳細な経緯は省略するが、いかにこれが間違っているかをかなりの時間議論して、最終的には開発のリーダー格だったメンバーが「悪貨は良貨を駆逐する」という故事を引き合いに出し、筆者の主張に賛同してくれたことから、ようやく「ド」はなしになった。 結局は「ポートベースVLAN」という表記に落ち着いた。 やれやれ、こんな恥ずかしい間違いを市場に出さなくて本当に良かった。

カレーやハヤシライスの話からスーパーハブの話までやけに振り幅の広い妙な記事になってしまったが、ご愛嬌ということで。

令和元年5月21日 初出
令和元年10月15日 移設
令和3年9月13日 追記
令和3年10月23日追記

バク転

筆者は「間違い探し」がなぜか得意である。仕事上の書類の誤植を見つけることは珍しくないが、雑誌なんかは誤植だらけだし、ちゃんとした出版社から出される書籍にも誤植はある。誤植がない・極めて少ないといわれる新聞や辞書にまで(!)誤植を発見したこともある。

これは、筆者がコンピュータ技術者として、ソフトウェア開発をしたり、仕様書を熟読したりする経験から身に付いたものだろう。プログラムのソースコードを眺めていると、ふと何か違和感のようなものを感じて、そこが「光って見える」のだ。

筆者が大学生のころだから1980年代後半の頃だったか、ある少年漫画誌の人気スポーツ漫画に

あーっと、ここでバク転だぁ!

というような表現があった。この時も単に誤植なのだろうと思った。しかし…

その後も様々なメディアで「バク転」という表現がちらほらと見られるようになった。こ、これはもしかして、みんな勘違いしている? そう、「後ろに」「転回する」から「バック転」なのだ。それがどうやらその語源(?)を知らない層が、聞き違いをしたのかなんなのかわからないが、なんとなく雰囲気で「バク転」という誤用をしだしたのだろう。既にあった「爆笑」や「爆睡」 などの「バク」に影響された可能性もありそうだ(これらも新しくできた言葉だが)。

今は平成が終わって令和の時代となったが、残念ながら「バク転」という表現は、あろうことかテレビ等のメジャーなメディアでも散見されるようになってしまった。それがさらに誤用を広める役割を負ってしまっている。筆者はもともとメディアなんぞは盲目的に信用することはしていないが、それにしてもひどい。ひど過ぎる。語源とか事の経緯とか、そういうものにそんなに無頓着になっているのだろうか。メディアの影響力がわかっているのだろうか。暗澹たる思いである。

ネットで「『バク転』は間違っていますよ、『バック転』ですよ」と指摘する人を見かけたことがあるが、それに対して「あ、そうなんですか? 勘違いしていました、今後は気を付けます」というような反応をする人がいればまだ救いはある。しかしそのような反応を示す者は残念ながらあまりいない。中には「どっちでもいいと思いまーすww」という安易な反応を示す者もいる。

はぁ、じゃあ車も「バク」すればよろしい。ひとりで「バクパッカー」でもするがよろしい。

筆者の言葉遣いもお手本になるようなものではないかもしれないが、自分への自戒の念も含めて「言葉はちゃんと本来の意味や語源を知って(できるだけ)正しく使う」ことを心掛けたいものだ。

令和元年5月17日 初出
令和元年5月20日 改訂
令和元年10月15日 移設

キラキラネーム

2019年5月1日から、日本の元号が「平成」から「令和」になった。元号というものを通して、悠久の歴史を持つ誇り高き日本の国柄に思いを馳せつつ、新たな時代に入るのは感慨深い。

日本の長い歴史の中で日本人の名前も時代とともに変遷してきたことは間違いない。ここでいう「名前」とは、いわゆるファーストネームのことだ。現在よくある名前だって、1000年前には全く存在しなかったものだろう。筆者の同世代だと、男性では「ひろし」「まさひこ」「こうじ」など、女性だと「ようこ」「まゆみ」「あけみ」などが多かったと思う。同世代の人には同意してもらえるのではないだろうか。

この「名前」は、姓と違って「親が自由に命名することができる」ものだ。若干の法的な制限があるにせよ(使える文字の制限とか)、基本的にはどんな名前を付けようが、親の自由である。ところが、筆者が大学生~社会人になった1990年頃からであろうか、異変が起きる。あるとき友人がポツンと言った。

最近変な名前の子供が多くない?

そういえば、筆者が大学生くらいだったろうか、1980年代後半のことだが、今思えば予兆があった。親戚の従兄夫婦に子供が生まれたが、その名前がその当時としてはちょっと変わったものだった。その時、筆者はあまり気に留めなかったが、伯父夫妻はなんだかあまり喜んでいなかったような記憶がある。

その後、社会人になると、同期や先輩社員が結婚する機会が多くなってくる。筆者の入った会社では、社内報で結婚した社員を紹介したり、子供の誕生をお知らせするコーナーがあった。生まれたてのかわいらしい赤ちゃんの写真がずらりと並ぶことも珍しくなかった。しかし、そこに登場する赤ちゃんの名前が、ことごとく「変」なのである。いわゆる「キラキラネーム」である。

最初は「また変な名前つけて! まぁこれも一時の流行だよな」と思っていたら、次から次へと「変な」名前が登場して、あるときは「よくもまぁそんなに新しい響きや当て字を思いつくもんだ!」と感心したこともある。この流れは一時の流行にとどまらず、なんだかいつのまにそれが「あり」になってしまった。

「変な名前」が流行し始めた頃、ネットでは「DQNネーム」(ドキュンネーム)と呼ばれていた。「ドキュン」の由来についてはネットで検索してもらいたいが、いずれにしても、あまり良い意味ではなく、はっきり言ってしまえば「おバカな親が付けたろくでもない名前」というニュアンスである。具体例を挙げるのは控えるが、その読み(響き)だったり、表記だったりが勝手きままに恣意的に付けられていて、ほとんどの名前が「読めない」のである。

筆者はこの「キラキラネーム」が続く風潮を憂慮しているので、ここではあえて当初の言い方である「DQNネーム」ということにする。なおここで注意しておきたいのは「子供には罪はない」ということだ。はっきり言ってしまえば「親がバカ」ということだ。なお、芸能人など、その名前自身が商品価値を持つような職業や立場の場合はDQNネームとは言わない。あくまで一般人の話であることに注意したい。

まず、最近の「キラキラネーム」などという呼称に異議を唱えたい。もともと「DQNネーム」という言い方があることを知っていて、わざと勝手に美称にしている。美称にすることでそれを「あり」にしている。どんなに名称を変えようが、本質的にDQNネームはDQNネームである。

ここでDQNネームを付けてしまう親の傾向をみてみよう。いくつか具体的な例を挙げるが、特定の誰かを指して非難する意図はないことは言っておく。

  • 自分の子供は唯一無二のもので超特別な存在だから、ありふれた名前なんてつけたくなーい、という勘違い親。【皇帝・天皇など】
  • 自分はたいして努力もしてこなかったくせに、子供には「世界に羽ばたいてほしい」という高望みで外国風の名前を付ける、グローバルかぶれ親。【アイザック・ローザなど】
    (※注: 森鴎外クラスになれば、まぁわからんでもない。)
  • 意図的に「読めない」名前を付ける理由として「一発で読まれたら負け」というバカな価値観のコミュニティーに属しているDQN親。【当て字】
  • いわゆる「産後ハイ」で、後先考えずに(親や親族に相談もなく) DQNネームを付けてしまい、出産届を提出してから親や親族へ報告するという、核家族至上主義親。
  • 「たまごクラブ」などの育児雑誌がDQNネームを扇動していて、安易に乗せられてしまうB層親。

ノリと雰囲気でつけた名前が、実は既に存在する全然違う意味の言葉だった、なんてものも散見される。親の教養のなさにあきれるばかりだが、そういったDQNネームをつけられた子供は本当に気の毒である。

  • 心太
    「しんた」とか「こうた」と読ませたいようだが、これ「ところてん」なんですけど…
  • 湯女
    響きは「ゆな」で今どきなのかもしれないが、これは三助の女版である「あかかき女」の意味だ。昔の職業の名称なので極端に悪いイメージでもないだろうが、逆にあんまり良い意味でもないだろう。これ以外でも他の表記の「ゆな」も見受けられるが、本来日本語で「ゆな」という響きはこの「湯女」しかないんですが…
  • 海月
    「海に映える美しい月」というようなイメージで 「みつき」とか「みづき」と読ませたいようだが、これ「くらげ」ですよ…

名前で個性を出したい、という親の思いもわからなくもない。しかし、個性なんてものは名前で出すものではなく、その個人の人格や能力から自然とにじみ出るものだ。手垢が付き過ぎた例だが、元メジャーリーガーのイチローが良い例である。本名「鈴木一朗」なんて、記入見本のような(失礼!)平凡な名前だが、世界的な活躍をしているではないか。

名前は「識別子」である。少なくとも「読めない」のではその役目を果たしていない。最悪なのが「○○と書いて△△と読む」パターンである。どんな思い入れがあるのか知らないが、勝手に恣意的な命名をするのはやめてもらいたい。第三者からしたら「そんなこと知らんがな!」である。子供だって後々苦労するだろう。いろんな場面で「いや、○○と書いて△△って読むんですよ」と100万回説明する羽目になる。文字の一部の発音だけを「勝手に」とって読む例も散見される。「愛」を「あ」とか「心」を「こ」と読むような例だ。これは「ぶたぎり」といわれる例だ。ひどいものだ。

DQNネームを付ける親はこう言うだろう。「だって、誰からも『そんな名前つけるもんじゃない』なんて言われなかったよ。」 当たり前である。例外はあろうが、身内やましてや友人くらいの関係ではそんな指摘はしてくれない。でも周りの人達は「えぇぇ…まぁ、親が付けるんだから文句言えないけどぉ…」と思っているだけである。「誰からもダメなんて言われてない」=「問題がない」わけではないことに気づくべきである。

名前の「響き」が時代が変われば変わっていくのは当然である。でも、ある時流行のように突然変わる、しかもその理由に明確な根拠もなく、なんだか軽いノリで変わっていくことにひどい違和感を覚えるのだ。

筆者の世代は、ほとんどが親と同じ傾向の名前だった。祖父母とも同じような名前が多かった。祖父母・父母・子供という家族構成が多かった時代だが、家族に一体感のようなものがあったのは、名前の傾向が類似していたことも無関係ではないだろう。そういった意味では、名前の響きなんてものは3~4世代かけてゆっくりと変遷していくべきものだと思う。少なくとも親子間ではある程度傾向の似た名前にしておくのが自然なのではないか。「ひろし」の子供がいきなり「ぜふぁあ」だったら変ではないか。

もちろん筆者だって「明治、大正、昭和時代の名前にしろ!」というつもりはない。ただ、今のはやりに安易に乗って、ノリで変な名前をつけるのはちょっと待って欲しい、というだけだ。

ちょっと古風な名前を、「シワシワネーム」などと揶揄する層がいるが、そういう輩はまず間違いなくDQNネーム派である。自分たちがバカなことをしているのを指摘されて、悔しいもんだから負け惜しみで言っているに過ぎない。

繰り返すが、どんな名前を子供につけようと、親の自由である。しかしこの「自由」を「勝手に」と解釈すべきではない。名前はその子供がその時代とともに一生使うものであり、しかも第三者に「読まれる」「呼ばれる」ものである。名前には社会性があるのである。無人島にひとりきりならどんな名前だろうが構わないが、周りにはあなたの子供以外の社会があることをぜひ忘れないでほしい。

「名前は識別子」だと前述したが、じゃあ「読める名前」だったらなんでもいいのだろうか。日本人だかなんだか分からない、ましてや性別も分からない(男女が逆転している例もあり)なんてのは、後々余計なトラブル(行政・民間サービスの情報入力・処理ミスを誘発するなど)に巻き込まれる確率が高くなるだろうから、それも適切ではないだろう。「性別がわかるような名前」に関しては最近のLGBTの問題もあるのでデリケートな問題ではあるが、まぁ社会通念上の一般常識というものがあるはずだ。

筆者に「バカな名前をやめさせる」権限はない。時代とともに名前のトレンドは変わってくるのも理解する。そうであれば最悪ひらがなでもカタカナでもいいから、とにかく第三者が間違いなく読めて、日本人だと認識できて、性別がわかる名前にして欲しい!

令和元年5月10日 初出
令和元年6月4日 改訂
令和元年10月15日 移設

「だっちもねぇ」記事予告

今後掲載する予定の記事の予告です。自分へのリマインダーの意味もあります(^^;)。

  • 若い○子あるある
    • 行列に並んでいる時、前の間隔を大きく開ける。
    • カバンの中身がぐちゃぐちゃ。ドン引き。
    • 電車内等で化粧。化粧道具(特に手鏡)が汚い、手垢や粉だらけ。
    • ブランド物のサイフを持ちたがるが、現金・電子マネーが相応の金額入っていない。
    • 結婚相手に求める条件は高いが、自分のスペックは…?
    • 「男女平等」についての勘違い。「機会平等」でなく「結果平等」を求めている。ましてや「女性優遇」では逆差別と言われても…
  • 飲食店カウンターのあるある
    • 1つ飛びに座席に座るのがマナー。2つ開けて座るバ○。結果、2つとも「死席」(しにせき)となる。
    • 左端(右端)を1つ開けて座るバ○。結果、空けた左端(右端)席は「死席」となり、1つ飛びのパターンも崩れる。
    • 最悪パターン「○▲○○●○●○●○●」←▲のせいで3席も「死席」となる…orz
  • セレブ
    • celebrity: 本来「有名人・名士」のこと。お金持ちかどうかは関係ない。たまたま芸能人やスポーツ選手の「セレブ」がお金持ちのことが多いだけで、素人の単なるお金持ちは「セレブ」ではない! だってそんな人知らないもん。
  • ファンタジック
    • そんな英語はない。「ファンタジー」の形容詞のつもり? fantacy → 形容詞なら fantastic (ファンタスティック)
  • 自分が一番大変
    • 仕事でもなんでも「自分だけが大変」「自分が一番大変」と思っていませんか? あのぉ、みんな大変なんですよ。生きていれば。
  • 特別な人生
    • 「俺は、妙に因縁めいた人生を歩んでいるんだ…」ドラマや映画の台詞ならともかく…。あなただけが特別な人生を歩んでいるわけじゃないんだ。みんな特別な人生を歩んでいるんですよ。もしあなたが「あいつは特にトラブルもなく平凡な人生」というなら、あなたも平凡な人生ですよ。自分だけが特別な人生などというのは傲慢でうぬぼれ。
  • サイレント・マジョリティと「ノイジーマイノリティ」
    • 「やかましい」人が増えている。騒いでいるのは一部の人だけ。それにメディアが乗っかっているだけ。数%の声をあたかも大多数の声のように報道するメディアは罪深い。ほとんどの「まともな人」はモノをいわない。