ハッシュドビーフ

子供が好きな食べ物といったら、スパゲッティ・ハンバーグ・カレーだろう。筆者が子供の頃はもちろん、令和の現代でも大きくは変わらないはずだ。とはいっても、筆者の時代では、スパゲッティといえば、いわゆる「ナポリタン」のことであり、バリエーションがあったとしても「ミートソース」くらいだ。ひょっとして現代の子供は「ボンゴレビアンコ」だの「カルボナーラ」だの、好みが深化しているかもしれないが。ハンバーグだって、筆者の頃の「マルシンハンバーグ」ではなく、ビーフ100%の「本格的な」ハンバーグなのかもしれない。

その点カレー(カレーライス)は今も昔もあまりバリエーションが変わらないように思う。本格的なカレーも増えたが、昔ながらの家庭で作るカレーも健在だ。

筆者が子供の頃、もちろんカレーが大好物だったが、ある時「今夜はカレーだ!」と喜び勇んで食卓について、最初の一口をかっこむと、妙な違和感があった。カレーだと思ったものが実はハヤシライスだったのだ。

「ハヤシライス」という名称の語源は「Hashed beef with rice」等諸説あるようだが、いずれにしても「hashed」という単語がキーワードだ。「こま切れにする」とか「ごたまぜにする」というような意味の動詞「hash」を形容詞的に利用するために過去分詞の形にしたものだ。コンピュータ業界では「ハッシュ」というと検索アルゴリズムだったり、連想配列の一種だったり、ファイルの正当性チェックのための「ハッシュ値」を求めたりすることでおなじみの諸兄も多いだろう。

スーパーで良く見かけるハヤシライスのルーのパッケージは、昔は「ハヤシライス」と表記したものしかなかったが、本格的な雰囲気を出したいという意図だろうか、最近は英語の発音に準じた表記のものも見かけるようになった。ところが、である。

ハッシュドビーフ

な、何これ? ま、間違ってますよ!

いうまでもないが、「hash」の最後の「sh」は無声音なので、後ろの「-ed」の発音は無声音の/t/である。カタカナに書き下すなら「ハッシュトビーフ」が正しい。ま、まさか「-ed」という綴りだけを見て、安易に/d/音として「ド」と書き下しているのだろうか?

大手有名食品メーカーが出す商品である。市場に出るまでに商品企画・パッケージデザイン・印刷業者等、様々なフェーズがあるはずであり、たくさんの優秀な人達が関わっているはずだ。それなのに誰も間違いを指摘しなかったのだろうか? それとも何らかの意図があって、わざとそういう表記にしているのだろうか?

さすがに誰も指摘しなかったとは考えられないので、いろいろと議論したあげく、「『-ed』はそのまま読めば『ド』だし、どうせ英語の本当の発音とは違うのだから、日本語として『ド』にしよう!」ということになったのだと推測するが、がんばる方向が間違っている。日本人の「英語リテラシー」はこんなにも低いのかと暗澹たる気分になる。

「-ed」はあくまで英語の文法上の語尾である。「hashed beef」なら「ハッシュされたビーフ」という意味の「された」に相当する部分である。英語に忠実に、ということなら「ハッシュトビーフ」にすべきだし、日本語としてのカタカナ語に落とし込むのであれば、むしろこのような文法上の語尾など取ってしまって「ハッシュビーフ」にすべきだ。

その他、最近よく目にする「-ed」問題を挙げておく。

  • advanced – 誤: アドバンスド、正: アドバンスト
  • baked – 誤: ベイクド、正: ベイクト
  • sliced – 誤: スライスド、正: スライスト
  • masked – 誤: マスクド、正: マスクト
  • poached egg – 誤: ポーチドエッグ、正: ポーチトエッグ

大手メディアや企業が手掛けている製品やサービスにこのような誤用が散見される。こんな間違いが堂々と世の中に出されちゃっている。頼むからちゃんとしてくださいよ。

ついでにもうひとつの例を。

2000年頃、筆者は大手電気メーカーでネットワーク機器の開発に携わっていた。設定次第でハブにもルーターにもなる、いわゆる「スーパーハブ」というものを開発していた。ネットワーク機器の設定といえば、Cisco社の設定方式(IOS)が有名で、ほぼ業界標準のようになっていたので、開発していたスーパーハブもIOSに「とても良く似ている」コマンド体系にしていた。一応断っておくが、IOSは、Apple社のスマホやタブレットで採用されているiOSとは全く別物だ。

さて、このような大規模な開発物件では、複数の部署の多数の人員で開発することになる。ハブ機能を実装するチーム、ルータ機能を実装するチーム、各種サーバ機能を実装するチーム、マニュアル(取説)を執筆するチーム等、総勢数十人で開発していた。

開発も最終段階に入り、マニュアルチームから査閲依頼が来るようになった。ここでまたしても筆者は目を疑うことになる。VLANの種類を設定するコマンドの説明文に、

ポートベースドVLAN
MACアドレスベースドVLAN

等と書いてあったのだ。

いやいやいや! 筆者はこの表記は間違っていると主張したが、最初はなかなか受け入れてもらえなかった。なんとまぁこんなに優秀な人達が集まっているというのに、かなりの人が「ド」で良いと思っていたのだ。

詳細な経緯は省略するが、いかにこれが間違っているかをかなりの時間議論して、最終的には開発のリーダー格だったメンバーが「悪貨は良貨を駆逐する」という故事を引き合いに出し、筆者の主張に賛同してくれたことから、ようやく「ド」はなしになった。 結局は「ポートベースVLAN」という表記に落ち着いた。 やれやれ、こんな恥ずかしい間違いを市場に出さなくて本当に良かった。

カレーやハヤシライスの話からスーパーハブの話までやけに振り幅の広い妙な記事になってしまったが、ご愛嬌ということで。

令和元年5月21日 初出
令和元年10月15日 移設
令和3年9月13日 追記
令和3年10月23日追記