キラキラネーム

2019年5月1日から、日本の元号が「平成」から「令和」になった。元号というものを通して、悠久の歴史を持つ誇り高き日本の国柄に思いを馳せつつ、新たな時代に入るのは感慨深い。

日本の長い歴史の中で日本人の名前も時代とともに変遷してきたことは間違いない。ここでいう「名前」とは、いわゆるファーストネームのことだ。現在よくある名前だって、1000年前には全く存在しなかったものだろう。筆者の同世代だと、男性では「ひろし」「まさひこ」「こうじ」など、女性だと「ようこ」「まゆみ」「あけみ」などが多かったと思う。同世代の人には同意してもらえるのではないだろうか。

この「名前」は、姓と違って「親が自由に命名することができる」ものだ。若干の法的な制限があるにせよ(使える文字の制限とか)、基本的にはどんな名前を付けようが、親の自由である。ところが、筆者が大学生~社会人になった1990年頃からであろうか、異変が起きる。あるとき友人がポツンと言った。

最近変な名前の子供が多くない?

そういえば、筆者が大学生くらいだったろうか、1980年代後半のことだが、今思えば予兆があった。親戚の従兄夫婦に子供が生まれたが、その名前がその当時としてはちょっと変わったものだった。その時、筆者はあまり気に留めなかったが、伯父夫妻はなんだかあまり喜んでいなかったような記憶がある。

その後、社会人になると、同期や先輩社員が結婚する機会が多くなってくる。筆者の入った会社では、社内報で結婚した社員を紹介したり、子供の誕生をお知らせするコーナーがあった。生まれたてのかわいらしい赤ちゃんの写真がずらりと並ぶことも珍しくなかった。しかし、そこに登場する赤ちゃんの名前が、ことごとく「変」なのである。いわゆる「キラキラネーム」である。

最初は「また変な名前つけて! まぁこれも一時の流行だよな」と思っていたら、次から次へと「変な」名前が登場して、あるときは「よくもまぁそんなに新しい響きや当て字を思いつくもんだ!」と感心したこともある。この流れは一時の流行にとどまらず、なんだかいつのまにそれが「あり」になってしまった。

「変な名前」が流行し始めた頃、ネットでは「DQNネーム」(ドキュンネーム)と呼ばれていた。「ドキュン」の由来についてはネットで検索してもらいたいが、いずれにしても、あまり良い意味ではなく、はっきり言ってしまえば「おバカな親が付けたろくでもない名前」というニュアンスである。具体例を挙げるのは控えるが、その読み(響き)だったり、表記だったりが勝手きままに恣意的に付けられていて、ほとんどの名前が「読めない」のである。

筆者はこの「キラキラネーム」が続く風潮を憂慮しているので、ここではあえて当初の言い方である「DQNネーム」ということにする。なおここで注意しておきたいのは「子供には罪はない」ということだ。はっきり言ってしまえば「親がバカ」ということだ。なお、芸能人など、その名前自身が商品価値を持つような職業や立場の場合はDQNネームとは言わない。あくまで一般人の話であることに注意したい。

まず、最近の「キラキラネーム」などという呼称に異議を唱えたい。もともと「DQNネーム」という言い方があることを知っていて、わざと勝手に美称にしている。美称にすることでそれを「あり」にしている。どんなに名称を変えようが、本質的にDQNネームはDQNネームである。

ここでDQNネームを付けてしまう親の傾向をみてみよう。いくつか具体的な例を挙げるが、特定の誰かを指して非難する意図はないことは言っておく。

  • 自分の子供は唯一無二のもので超特別な存在だから、ありふれた名前なんてつけたくなーい、という勘違い親。【皇帝・天皇など】
  • 自分はたいして努力もしてこなかったくせに、子供には「世界に羽ばたいてほしい」という高望みで外国風の名前を付ける、グローバルかぶれ親。【アイザック・ローザなど】
    (※注: 森鴎外クラスになれば、まぁわからんでもない。)
  • 意図的に「読めない」名前を付ける理由として「一発で読まれたら負け」というバカな価値観のコミュニティーに属しているDQN親。【当て字】
  • いわゆる「産後ハイ」で、後先考えずに(親や親族に相談もなく) DQNネームを付けてしまい、出産届を提出してから親や親族へ報告するという、核家族至上主義親。
  • 「たまごクラブ」などの育児雑誌がDQNネームを扇動していて、安易に乗せられてしまうB層親。

ノリと雰囲気でつけた名前が、実は既に存在する全然違う意味の言葉だった、なんてものも散見される。親の教養のなさにあきれるばかりだが、そういったDQNネームをつけられた子供は本当に気の毒である。

  • 心太
    「しんた」とか「こうた」と読ませたいようだが、これ「ところてん」なんですけど…
  • 湯女
    響きは「ゆな」で今どきなのかもしれないが、これは三助の女版である「あかかき女」の意味だ。昔の職業の名称なので極端に悪いイメージでもないだろうが、逆にあんまり良い意味でもないだろう。これ以外でも他の表記の「ゆな」も見受けられるが、本来日本語で「ゆな」という響きはこの「湯女」しかないんですが…
  • 海月
    「海に映える美しい月」というようなイメージで 「みつき」とか「みづき」と読ませたいようだが、これ「くらげ」ですよ…

名前で個性を出したい、という親の思いもわからなくもない。しかし、個性なんてものは名前で出すものではなく、その個人の人格や能力から自然とにじみ出るものだ。手垢が付き過ぎた例だが、元メジャーリーガーのイチローが良い例である。本名「鈴木一朗」なんて、記入見本のような(失礼!)平凡な名前だが、世界的な活躍をしているではないか。

名前は「識別子」である。少なくとも「読めない」のではその役目を果たしていない。最悪なのが「○○と書いて△△と読む」パターンである。どんな思い入れがあるのか知らないが、勝手に恣意的な命名をするのはやめてもらいたい。第三者からしたら「そんなこと知らんがな!」である。子供だって後々苦労するだろう。いろんな場面で「いや、○○と書いて△△って読むんですよ」と100万回説明する羽目になる。文字の一部の発音だけを「勝手に」とって読む例も散見される。「愛」を「あ」とか「心」を「こ」と読むような例だ。これは「ぶたぎり」といわれる例だ。ひどいものだ。

DQNネームを付ける親はこう言うだろう。「だって、誰からも『そんな名前つけるもんじゃない』なんて言われなかったよ。」 当たり前である。例外はあろうが、身内やましてや友人くらいの関係ではそんな指摘はしてくれない。でも周りの人達は「えぇぇ…まぁ、親が付けるんだから文句言えないけどぉ…」と思っているだけである。「誰からもダメなんて言われてない」=「問題がない」わけではないことに気づくべきである。

名前の「響き」が時代が変われば変わっていくのは当然である。でも、ある時流行のように突然変わる、しかもその理由に明確な根拠もなく、なんだか軽いノリで変わっていくことにひどい違和感を覚えるのだ。

筆者の世代は、ほとんどが親と同じ傾向の名前だった。祖父母とも同じような名前が多かった。祖父母・父母・子供という家族構成が多かった時代だが、家族に一体感のようなものがあったのは、名前の傾向が類似していたことも無関係ではないだろう。そういった意味では、名前の響きなんてものは3~4世代かけてゆっくりと変遷していくべきものだと思う。少なくとも親子間ではある程度傾向の似た名前にしておくのが自然なのではないか。「ひろし」の子供がいきなり「ぜふぁあ」だったら変ではないか。

もちろん筆者だって「明治、大正、昭和時代の名前にしろ!」というつもりはない。ただ、今のはやりに安易に乗って、ノリで変な名前をつけるのはちょっと待って欲しい、というだけだ。

ちょっと古風な名前を、「シワシワネーム」などと揶揄する層がいるが、そういう輩はまず間違いなくDQNネーム派である。自分たちがバカなことをしているのを指摘されて、悔しいもんだから負け惜しみで言っているに過ぎない。

繰り返すが、どんな名前を子供につけようと、親の自由である。しかしこの「自由」を「勝手に」と解釈すべきではない。名前はその子供がその時代とともに一生使うものであり、しかも第三者に「読まれる」「呼ばれる」ものである。名前には社会性があるのである。無人島にひとりきりならどんな名前だろうが構わないが、周りにはあなたの子供以外の社会があることをぜひ忘れないでほしい。

「名前は識別子」だと前述したが、じゃあ「読める名前」だったらなんでもいいのだろうか。日本人だかなんだか分からない、ましてや性別も分からない(男女が逆転している例もあり)なんてのは、後々余計なトラブル(行政・民間サービスの情報入力・処理ミスを誘発するなど)に巻き込まれる確率が高くなるだろうから、それも適切ではないだろう。「性別がわかるような名前」に関しては最近のLGBTの問題もあるのでデリケートな問題ではあるが、まぁ社会通念上の一般常識というものがあるはずだ。

筆者に「バカな名前をやめさせる」権限はない。時代とともに名前のトレンドは変わってくるのも理解する。そうであれば最悪ひらがなでもカタカナでもいいから、とにかく第三者が間違いなく読めて、日本人だと認識できて、性別がわかる名前にして欲しい!

令和元年5月10日 初出
令和元年6月4日 改訂
令和元年10月15日 移設